昭和50年06月21日 朝の御理解
御理解 第79節
「商売をするなら、買い場売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」
お道の信心。教祖様の信心、それを一口でまぁ申すならば、人が助かる事さえ出来ればと言うのだと思います。この方は人が助かる事さえ出来れば、それで結構であると仰っておられます。私くしはこの79節の芯になる所は、そう言う事だと思うですね。それはどう言う事かと言うと、人が喜んでさえ下さればと言う事に繋がると思うんです。言うならば、お客さんが喜んで下さりさえすればと言う事に繋がると思うんです。
また問屋さんが喜んで下さるという生き方だと思うんです。私くしはどこまでも、まあ真の信者と言う事を、あれもおかげであった是もおかげであったと分かるようになると、本当の信者と。いわば真実誠の信者じゃと仰います。その本当の私は商売人というのは、ね、人が喜んで下さりさえすれば。ね、お客さんが喜んで下さえすれば、という精神のお店こそ、本当な商売に、本当の焦点だと思うです。ね。
昔から、いわゆる古い店の事を老舗とこう申します。ね。5代も10代も続いたと言う様な店の根本、私くしは心情と言った様なものは、確かにそれと同んなじ様な心情があると思うです。あれはあのう南春夫ですかね。客席で、ね、お客様は神様ですという、まあキャッチフレーズですかね。商売をさせて頂く者は、言うならばお客様は神様ですと言う様な頂き方です。
私くしは本当の商売人というのはです。本当にお客さんが喜んで下さりすればという精神のあの人。またそういう人がです、ね、様々な難儀にも出会いましょうけれどもです。ね、そこを体はちびるもんではないから、本気で一生懸命に働かせてもらう。ね。最近私くしが申しますように、12時までは、まぁだ今日だというようなね。神様に例えば私の方の店が維持する為には。
例えば一万円なら一万円はどうしても頂かなければ、この店は立ち行きません。所が今日は一生懸命、まあ売って回ったけれども、まあ5千円なら5千円しか儲からなかった。もう日は暮れた。もう6時になった7時になったと。もう今日は仕方がないこれで帰らせてもらおう。これが神乍だろうと言った様な、そう言う所に神乍を付けちゃならん。ね。まぁだ12時までは今日だと言う様な意気込みを持って。
その商売をさせて頂くところからです、なるほど神様が、間違いなく願いだけのおかげは下さるという、神様の言うならば、間違いない働きをそこに確信して行く事が出ける。ね、これは体がちびるものではいから働くが良いと。そのくらいな一つ根性と同時にです、とにかくお客様が喜んでさえ下さればという生き方です。ね。だから場合にはです、なら損する様な事があるかも知れません。ね。
けれども神様が喜んでさえ下さりさえすればじゃない、お客さんが喜んでさえ下さりさえすれば、と例えばいう生き方がです、そのまま教祖のお言葉を言うならば行じる事ですから、これがおかげにならんはずがありません。そん時は例えば損しておるように思うてもです、神様が儲けさせて下さる時期を必ず与えて下さる。私くしはあのお道の信心は、あの教祖様の御教えを忠実に守ると言う事だと思うんですよ。
それがどんな事であっても、それをはいと言う様な心です。昨夜は菊栄会でした。もう終わりましたのがもう11時過ぎだったでしょうね。ほれでまさき先生、文男先生高橋さん。それから戎浦さんがあの部屋に見えられました。ですから今日はあ戎浦さんの今日は誕生日ですち。ね。誕生日ちゅう何かちゅうものは、自分でお祝いをするてん何てんち、あれは間違いだ。
やっぱり神様が、ね、お前がこの世に出て来たという事を神様が喜んで下さって。そして神様が祝福して下さるような誕生日でなからなければ、本当のお祝いとは言えない。なら今日はいっちょうあんたの誕生を私が祝うてあげようという訳で。ね。まぁそのう私しのいつもの癖ですけれども、さあお茶を出そうお茶菓子、終えたお菓子を出すという風で。まあ一時でも私が側に置きたいと言う様な風をするもんですから。ね。
私しはほんにアンタどんにいつも気のどくっかて、こうやって引き止めるから。気の毒っかけれどもね、けれどもね、矢張りおかげを頂いて貰わなきゃならんから。まさき先生が言いよりました。本当親先生が、私どんが信心がもう本当こげな風じゃけん、歯痒い思いをさせよるじゃろうと思うと。今日もテレビで琴の先生がお弟子さんに教えよんなさるところがあった。ね。
もう愈々分からんと、その持っておる扇子を投げつけなさる。それでも分からんと本当に自分の頭ば扇子でバチバチ、こう叩きなさる所があったとこう言う。そしてそれを見ながら私は思うたち。親先生がもう私どんが分からんけん、それこそ自分で自分の頭ばバチバチ叩きよんなさる様な事があろうと思うたと、こう言う訳なんです。これはしかし嘘じゃない本当ですよ。ね。勿論私は頭ばこうこうやって叩きゃせんけれども、それこそ自分の心を叩くわけです。私が言う事を聞かせきらんのだから。
私がこうすりゃおかげになる。こうすっと助かると言うても思うてもです、それを実行しなかった時です、それこそ持っとるモンば投げつけるごともあるけれども。これは言う事を聞かせきらんのだから、これは師匠の私がつまらんのだと思うて、なら我と和賀心を叩かせて貰うという生き方です。これはまぁ本当にそうです。ね。これはどう言う事かと言うと、矢張り人が助かる事さえ出来ればという根本精神です。ね。もう言うたっちゃ聞かんなら、もうよかよかと言った様なもんじゃない。
どうでもおかげ頂いて貰いたい、助かって貰いたい。ね。人が助かる事さえ出来ればという精神です。ね。そこのへんがです分かった様で分からんと言いよる所へ、秋永先生が昨日は田主丸教会に詣り、月の20日は必ずお話に行かれます。であちら終わって帰って来られましたから、また座が賑わくなったごたる風で、まぁ結局んなら始めから最後まで、何かと言うと信心話ばっかりです。ね、
私がお茶を飲みながら、私がお酒を頂きながら言う事話す事は、もう矢張りそれはどんなに馬鹿話のようであっても、その芯は信心話です。ね、そしてそう言う様な場面に直面する時に、成程親先生がお茶を飲んで行けとか、酒をこう注がれるという時にはです、ね、振切って帰る様な事はしちゃいあん。ここは何か御神意、御神慮があるに違いはないからと、大体おぼろげながら分かってはおるけれども、それを中々実行致しません。ね。昨日は丁度もう3時だから。
もう切りをつけて皆さん、私はもう3時半にはここに出て来るから、ちょっとでも休んでもらおうかと思いよる所へ、お参りがあった。いやあ朝の3時頃お参りどうした事。何かと思うた所が、そのういわば夫婦喧嘩です。そしてさぁもう叩かれた上にも叩かれて、もうこれでんなら、今まで出て行けじゃったばってん、今度はもう別れるちゅう事になった。そこで奥さんが信心が少しございますから、そんなら合楽の教会にお参りをして、そして合楽の親先生の前できっぱり別れようと言う事になった。
そらあ朝の3時前詣った。私しはそん時に思いました。本当にほら見てごらんと、ね、あんたどんがこうやって、今日は戎浦さんも誕生だからと言うて居つかれたごとあるけれども、やっぱ神様に使われとると。ね。こういう例えば働きがありよると。とまぁ言うた事でございましたけれどもです。ね。私くしは見えたというかすぐ、あの神様にその場で御祈念させて頂きましたら、こう目の前にあのう応接台の上に誰が持って来とったでしょうか、文男先生か誰かでしょうか。
あん煙草の小さいマッチが置いてあった。そのマッチを頂くんですよ。どう言う事を書いてあるかと取り上げて見たら、こう言う事が書いてあったですよね。 何と言うても何と言うても、飲むなら八女茶と書いてあった。お茶屋さんの宣伝マッチでした。ね。言うなら親先生が何と言うても、それを大きく飲んで行けと言う事なんです。八女茶と言う事は、ね、貴女が愈々大きなおかげを頂きたいならば、ね、愈々親父が何と言うてもここを飲んで行け。けれどもお父さんは、とうとう自動車の中を下りらなかった。
だからもう下りらんでよかて。だからこればお土産に持って帰りなさいて。そしてお父さんにはね、私しが悪い所があんならば貴方も辛抱をして下さい、飲んで下さい。ね、私に悪い所ばっかりじゃろうけれども、一つそこをお父さん、まあ飲んで下さいと、親先生はこういう生きた事実、生きた御理解を持って、お示し頂いたと言うて、自動車の中で話しなさいと言うて返しました。
もう3時半になりましたから、まぁ私はこちらへ出て来たんですけれども。ね。例えばあの偶然とかただ事とか、とてももう本当に神様が言葉を持って教えてござるごたるでしょうが。これならそう言う事も、私の周辺にはいつもなんです。ね。何と言うても、飲むなら八女茶と。ね、私しはそれもう私しまだ部屋に来る前にそれを頂いたから私しはそのマッチを示して、それだけ申しました。
まぁこれは今日の御理解には少し反れますけれどもです。ね、何と言うてもどう言う事があっても、それを飲める信心。ね、そこに私しは大きなおかげの約束がある。商売させて頂きよんなら、決して儲けるというばかりじゃなか。場合には本当にもうそれこそ何もかもしまわかさすような事もあろうけれども、そこが商売人なんです。ね、根性です。商売人なら絶対戻りがなからなければ商売が出けんと言う様な事、絶対ないです。これは私自身が体験して来ておる事です。ね、
だからいつうでもなら裸一貫になったっちゃそこから、またやれれるんだという確信です。しかもその確信に満ちたその心でです。ね、考えて見ると自分が儲かりさえすれば良いという生き方では、いけなかったと言う様な事を分からせてもろうて、これからはいっそ本気で人が助かる事さえ出来ればであって、言うならばお客さんが喜んで下さりさえすればという、生き方をもっとうにした商売人にならせて頂いたら、ね、もうこれは教祖の御教えを行ずる事になりますから、おかげになるです。ね。
私は思うのにならその人が一代でおかげを頂くだけじゃ出けんです。商売をするならば、それこそ老舗と言われるように、5代も10代もずっと続いて行くような商売をさせて頂かなければならないのですから、商売人が商売人の、言うならばお徳を受けて、お徳を残して行かにゃ。信用のあるのれんを残して行かなきゃいけん。ね。大阪辺りでは何が何と言うても、のれんと言う事を一番大事にするそうです。と言う事はそのまま店の信用と言う事です。
店の信用さえ作って行きゃあ、商売は必ず続くのであり、必ず言うならば儲かりもする。そして人にも喜んで貰えれる、お客さんにも喜んで貰えるというおかげが頂かれるのです。私くしは本当の信者とこう言うか。言うならば今日は本当の商売人という人はです、もう絶対お客さんが喜んで下さりさえすればと、それこそ人お客さんは神様だと言う様な気持ちで大事にするお店だと思うです。
そりゃお得意さんを粗末にすると言う様な人はありません。けれどもそれはね、ほんなもう買うちもらうけんばっかりに大事にしよるとと言う様な事じゃいかんです。信心でとにかく大事にしなきゃいけんです。ね。それはそりゃ成程商売の騙くらかすとが上手ちゅうような、私どん過去の信心ではそげな所が確かにあったんですけどもね。はぁ駆け引きがうまい商売が上手い。もうとにかく騙くらかすとが上手ちゅうごたる商売もないじゃないです。それは儲けもします。
けれども絶対それは子に孫に伝わらないです。私くしは商売をさせて頂いて、商売人の徳を受けなきゃいけんと思うです。ね。その徳を受けて、私しは親の代よりも子の代というようなです、繁盛を辿らせて貰う様なおかげを頂かなきゃならない。この私しは79節はです、ね、本当の商売人になれよと言う事だと思うです。ね。本当の商売人というのは、もう絶対ですお客さんを大事にする。ね、人が助かる事さえ出来ればという精神です。ね。そういう生き方になりゃまた、ね、
卸し元の方も元を仕込む所も大事にする。そういう私くしは商売で。ね。そういう生き方。これはだから商売人だけの事ではありません。ね。同んなじいわば精神を持ってです。ね。お互い信心をさせて頂いたら有り難い。何と言うても飲むなら八女茶じゃないですけれども。ね、それこそ清濁愛飲みという言葉がありますけれども。それを信心でです、もう頂けない。
もうこれだけは損になるから、頂けないと言うてもそこにお客さんの真の喜びをそこに思うならばです。ね、それを頂いて行く。ね。そこに損ばっかりはさせちゃおられん。ね、今度ちった儲かるもんを買う時には、やっぱそこから買おうと言う事にもなって参りましょう。ね、同時に神様の働きがそこから始まるです。でも一つお客さんが喜んで下さりさえすればという精神。それはそのまま教祖の人が助かる事さえ出来ればと言う事に通ずると思うですね。
どうぞ。